utopistics

日々のことを。

ボルタンスキーと死の受容プロセス

ボルタンスキー展に出かけてきた。

彼の作品を見に行くのは二〇〇九年越後妻有(最後の教室)、二〇一〇・二〇十三豊島(心臓音のアーカイブ)以来だ。

国立新美術館のLifetimeは初期のブルース=ナウマンのような、まさに原題どおりに吐きそうな映像から始まり(Tateで随分前にブルースの“あの道化師のビデオ”を見たときの気分といったら!)全体の展示に不穏な重さを乗せている。

 

たくさんの顔が白く揺らぐ大きな空間に、これが全て日本人の顔だったらば、自分はどう感じただろうと思いながら歩いていく。ボタ山に積み上げられた黒い服は東北の海あるいは鳥の死骸のようにも見えた。

 

けれども、アニミタス-白 の鈴を前にベンチに腰掛けていると、ぼうっとする耳に黒いコートが死について尋ねる声が聞こえてきて、私は不思議と安堵していた。私はやっと、自分の中でずっと話せてこなかったことについて、悲しめるようになってきたのかもしれない。

 

ボルタンスキーの近年の作品はキューブラー=ロスの死の受容プロセスを体験させるように思う。

 

エスパス  ルイ・ヴィトンに移動すると、アニミタスの二作品を独り占めすることができた。干し草のにおいと、風鈴と、緑の声がして、光の差す空間は懐かしい希望を感じさせてくれた。至極僭越で本当のところは全くもって見当違いかもしれないが、ボルタンスキー自身が自らの死と生を受容できるようになってきたのならば、とても嬉しい。